歴史の古い街はイタリアに数多くあれど、レッチェはそのなかでもとりわけ古い街に入るでしょう。この街の基礎を作った人々が、古代ギリシャのエーゲ文明発祥の地=クレタ島から海を渡ってやってきたとされるメッサーピ人(I Messapi)であろうことが、考古学者の間で広く認められています。「トロイの木馬」で有名なトロイ戦争(紀元前12世紀)の頃には、すでに歴史上にメッサーピ人の名が登場しています。それによれば、この頃ギリシャのエーゲ海地方から移住してきてサレントに定住していたメッサーピ人は、メッサーピ語(文字はギリシャ文字)でオオカミを意味する“シバル(Sybar)”という名で自分たちの街を呼んでいたそうです。

そんな古代ギリシャ時代にまで遡ることのできる、レッチェの街にまつわる次のような古い伝承が今でもこの地に残っています。

— むかーしむかし、そのまた昔。サレントの地にサーロ(Salo)という名の王がおったそうな。そしてサーロ王が死ぬと息子のダスムノ(DasmunoあるいはDauno)が王位を継いだのじゃ。ダスムノ王は狩りをたいそう好んだそうじゃが、ついにはサレントの地にたくさんおったオオカミに食べられてしまったんじゃと。
そして息子のマレンニオ(Malennio)が次の王となり、レッチェの街の礎を築いたんじゃそうな。そしてこのマレンニオ王にはそれはそれは美しい、エウイッパ(Euippa)という名の娘がおったそうな。

一方そのころ海のむこうのクレタ島では、メッサーピ人の王イドメネオ(IdomeneoあるいはIdomeneus)が、戦のあとの帰りすがら、海で大嵐に遭っておった。海の神ポセイドンにむかい「もし故郷クレタに帰ることができたら、私が陸にあがって最初に出会った者をあなたに生け贄として捧げましょうぞ!」と海を鎮めるようお願いしたところ、見事またたく間に嵐はおさまり、命からがらイドメネオはクレタへと帰り着くことができたそうな。
ところが…なんという運命のいたずらかのぉ、イドメネオがクレタに上陸して最初に彼を出迎えたのは、心配して帰りを待ちわびておった自分の息子じゃった!悩んだあげく海神との約束を果たすためにイドメネオはついにその息子を生け贄として捧げてしまったんじゃが、それに驚き怒ったクレタの民は自分たちの王イドメネオを国から追い出してしまったのじゃ。
こうしてイドメネオはまた海へと漕ぎだすこととなって、長旅の果てにサレントの地へと流れ着いたのじゃが、そこでイドメネオはこれまたなんという運命のいたずらかのぉ、サレントの美しい姫エウイッパと出会い恋に落ちたんだそうな。やがて二人の間にかわいらしい女の赤ん坊が生まれて、こうして2つの民族がサレントでひとつになったのじゃ。
かわいい赤ん坊をみて故郷クレタの美しい街リーチャ(Lycia)を懐かしくおもったイドメネオは、この赤ん坊をリーチャと名づけ、やがて太陽の女神のように美しく育ったリーチャにちなんでこの街もレッチェと呼ばれるようになったのじゃ。そしてレッチェの街の職人たちは競ってきれいな衣装や靴や建物をつくり、詩をうたってはリーチャに捧げてみな幸せに暮らしたそうな。めでたしめでたし。—

もちろんこれはそのまま正確な史実として鵜呑みにできるものではありませんが、この言い伝えに登場するイドメネオ、エウイッパ、ダスムノそしてマレンニオの胸像は、レッチェ三大門のなかでも最古のルーディエ門に現在でもみることができます。

その後、ローマ帝国が拡大していく過程で紀元前3世紀には、ハンニバルとスキピオという名将対決で有名な第2次ポエニ戦争においてレッチェはカルタゴ側についてローマに抵抗を試みるものの、その甲斐もむなしくローマ人に征服され同化していきます。ローマ人は先住のメッサーピ人にならいこの街を「オオカミの街」を意味するラテン語“ルピエ(Lupiae)”へと改称しました。現在でもレッチェ市の紋章には樫の木とともにオオカミが描かれているのは、これらSybarやLupiaeといういにしえの街の名に由来しています。

 

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