それにしてもなぜアルベロベッロ一帯だけに、このような独特の石造りの家々がたくさん建つことになったのでしょうか?
15世紀後半から18世紀後半まで3世紀以上にわたりアルベロベッロ一帯をその広大な領地の一部として治めていたのは、ナポリ王国の名門貴族 アックアヴィーヴァ・ダラゴーナ家(Acquaviva d’Aragona)でした。

そして時代は16世紀初頭、サレントの地が『テッラ・ドートラント(Terra d’Otranto)』と呼ばれていた頃のおはなしです。
当時サレント半島はナポリ王国(Regno di Napoli)の一部でありましたが、そのほんの少しまえ15世紀末にはオスマントルコ帝国の大艦隊がイタリア半島南部をたてつづけに侵攻してきて、海洋交通の要衝であった当時サレント最大の港町オートラント(Otranto)が陥落。さらにオスマントルコ海軍はアドリア海を北上しこれまたきわめて重要な港湾都市ブリンディシ(Brindisi)までも奪おうかという勢いでしたが、ぎりぎりのところでナポリ王国軍が反撃しなんとかオスマントルコ軍によるイタリア半島侵略を食い止めたのでした。
これは、強大な先進イスラム国家が欧州キリスト教世界の心臓部といえるローマ教皇庁のすぐお膝もと、イタリア半島南部まで侵略してきたという衝撃的な出来事でした。辛くも撃退したとはいうものの、最新鋭装備のオスマントルコ軍との戦いに大打撃を受け疲弊したナポリ王国、その民衆もまた弱っていたのでした…

そんな16世紀初頭の領主であった アンドレアマッテオ3世(Andrea Matteo III)は、アルベロベッロ一帯の開墾を命じて、近隣の村から40家族ほどを送りこみました。その時からアルベロベッロに人間が定住する歴史が始まったわけですが、開墾民たちの生活はたいへんな苦難をともない住環境も劣悪、何世代かにわたって仮小屋暮らしがつづいたそうです。
それから一世紀以上の時が流れた17世紀前半、当時のアックアヴィーヴァ・ダラゴーナ家当主ジャンジローラモ2世(Giangirolamo II)がこの地に狩猟小屋を建てたのを契機に、本格的な街の建設つまり定住住居群の建築が始まったのです。領主から住居建築を認められたものの、その建築方法については風変わりなルールが設けられました。それはすなわち「掘り出した石を利用して家を建ててよいが、接着材料の使用は禁ず。石材の積み上げ式のみ可。」というものでした。
なぜ領主はそのような建築ルールを命じたのでしょうか?当時ナポリ王国では新しい住居の建設にはわざわざ国王の許可を得なければならず、また国王が派遣する検地官による王国領土の巡回検地がぬきうちで行われ、その際に記録した各領地内の住居の数(=すなわち領民の人口)に応じて領主たる諸侯貴族たちには国税を納める義務が課せられていました。
ところが悪知恵をはたらかせたアルベロベッロのちゃっかり領主どの、巡回検地の際に家の数をなんとかゴマかせないかと考えたわけです。それでもし検地官がやって来ると分かったらすぐに家を取り壊せるような住居ならば建ててもいいだろうということでモルタルの使用を禁じたわけなのです。
じっさい1644年には、検地が行われると知った領主ジャンジローラモ2世は、住民たちに自分たちが住むトゥルッリを即座に取り壊させ一時的にアルベロベッロから退去させることにより検地官の目をゴマかすことに成功したという記録も残されています。
まぁハッキリと言いますと…節税?いえいえ、これはれっきとした脱税行為ですね!
このようにして、領主による理不尽な建築規制法を守りながら、住民たちの知恵の結晶として生み出された住居群こそが、今日アルベロベッロに残るトゥルッリ住居群なのです。

余談ですが、その後18世紀末までアルベロベッロはアックアヴィーヴァ・ダラゴーナ家の領地でしたが、1797年ときのナポリ王国々王フェルディナンド4世(Ferdinando IV)がアルベロベッロ市民の嘆願を認め、同年5月にアルベロベッロを国王直轄領としたことにより、モルタルの使用禁止など、長年にわたる理不尽な領主による圧政からようやく解放されることとなったのでした。
自由の身となったアルベロベッロ市民が最初にやったこと?…そう、それはもちろんモルタルを使って家を建てることでした。
記念すべきアルベロベッロ初のモルタル建築は、初代アルベロベッロ市長フランチェスコ・ダモーレ(Francesco d’Amore)とその家族の住居として建てられました。カーサ・ダモーレ(casa d’Amore)とよばれるこの家屋は現存し、今日でもツーリストインフォメーションセンターとして利用されています。

 

 

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