19世紀後半の近世になるまで600年間以上にわたりサレント地方は『Terra d’Otranto = オートラントの地』という名で呼ばれていたほど、オートラントは重要な港町でありました。

オートラントは、紀元前12世紀頃にメッサーピ人(クレタ島あるいはバルカン半島から海を渡ってきた人々)がサレント半島に移住し建設したという、3千年を越える歴史をもつ街です。その後古代ギリシャの植民都市としてギリシャとサレントの往来にとって最も重要な港として発展し、いにしえのギリシャからの開拓者たちはこの街を古代ギリシャ語で “Hydrus” と名づけました。
さらにその後のローマ帝国時代にサレント地方を征服したローマ人たちは、この街をラテン語で “Hydruntum” と呼びましたが、いずれの名もサレント地方には珍しくこの街を流れている川=水すなわちギリシャ語の “ydrous”(イドゥロス)に由来しています。
現在でもオートラント市民のことを”Idruntini”というあたりにその名残がみられます。

紀元前3世紀ローマ帝国の拡大期におこった、かの有名な「ポエニ戦争」ではカルタゴの名将ハンニバルに味方しローマ軍に抵抗しましたが、ほかのサレント地方の各都市とともにローマへ吸収されました。その後は1500年以上にわたりローマ帝国の東方世界への玄関口として、イタリアの文化また経済上とても大きな役割を担って栄えることとなったのです。
サレント半島を拠点として群雄割拠の南イタリアを一代で統一したノルマン人の英雄ロベルト・ダルタヴィッラの長男でサレント地方を治めたボエモンド1世(Boemondo I d’Altavilla)によって11世紀末に 建てられたというオートラント郊外の修道院Monastero di San Nicola di Casoleには膨大な書物を所蔵したヨーロッパ最大の図書館があり、そこでは地中海世界の四方から若者が集まり学問の研鑽を積んでいました。それは現存する世界最古の大学とされるボローニャ大学に先んじて、まさに『世界初の大学』であったと言われています。
そんなオートラントの長く続いた平和と繁栄の日々は突如終わりを迎えることになります。
1480年7月、東方イスラム世界の大国オスマン帝国が誇る海軍が、ローマまで侵略する足がかりとして、軍艦150隻に兵士2万人をのせオートラントの港に現れます。
驚いた市民の多くが逃げ出すなか、街を守るために立ち上がったオートラント市民もいましたが、大型大砲など最先端の武器を装備したオスマントルコ軍の前ではその抵抗もむなしく、わずか10日あまりでオートラントの街は陥落してしまいます。そして生き残って捕えられた市民のうち16才以上の男性は全員処刑、女性や子供も奴隷とされました。

一年以上にわたりオートラントを占拠し続けたオスマントルコ軍は、ナポリ王国軍の必死の反撃にあったのち、本国から皇帝メフメト2世死去の報を受けしぶしぶ撤退していきます。
この惨禍を生きのびたオートラント市民のほとんどが街を捨て出ていったものの、わずかながらに残った人々の手により街は復興され強固な城が建てられました。そのおかげで約60年後にふたたび1535年と1537年の2度にわたり襲来したオスマントルコ軍をオートラントはみごと撃退することに成功しています。
このようにイスラム世界とキリスト教世界の対立という悲しい歴史の最前線としてもその名を残すオートラントは、2010年にユネスコによって『世界“平和の証人”遺産』に認定されています。

 

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